2018年07月01日

宮城県石巻市、女川町、南三陸町を訪問

昨日から2日間、防災教育と復興対策などを視察させて頂くため、逗子の村松教育長のアテンドで、県内教職員有志と一緒に宮城県石巻市、女川町、南三陸町を訪問。

まず、『一般社団法人コミュニティスペースうみねこ』代表理事の八木純子さんにお話を伺うため女川町へ。

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八木さんは被災後自らも避難所生活を送る中、子どもの心のケアの必要性を感じて避難所での子守り活動をスタート。
また、高齢者からお風呂の問題などの相談を受け、避難所内にデイサービスも立ち上げたそうです。
その後、仮設住宅に移ってからは被災者の雇用創出を目的に、津波で浸水した納屋をボランティアの方々と一緒にリフォームした『ゆめハウス』で、不要Tシャツから作った草履やハンドメイドアクセサリーを販売する傍ら、漁師ができなくなった男性のために果樹園や畑を作り、収穫したイチジクを使ったデザートやお茶なども提供しています。

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女川町に続き、石巻市の大川小学校跡地へ。
ここでは、北上川を挟んで大川小学校の向かいに位置する石巻市立北上中学校の元校長、畠山先生に当時の話と学校現場での防災対策についてお話を伺いました。

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地震発生後、大川小学校では学校に残っていた児童と教職員は安全と思われていた校庭(海抜1.1m)で50分間待機した後、学校に近く校庭より少し高い位置にある三角地帯(海抜6m)に向かったところに津波が襲来し、児童74名、教職員10名(当時78名の児童と11名の教職員が校庭にいたと言われている)が犠牲になってしまったとのこと。
大川小学校の場所(海から3.8km、北上川から200m)は過去の地震発生時にも津波が到達した事はなかったことから、学校関係者だけでなく地域住民の間にも安全との認識があったようで、やはり最悪を想定した危機管理マニュアルの作成と地域と連携した訓練の重要性を訴えていました。
そして、津波に破壊された校舎(1985年建設)は、今後も震災遺構として残されることが決定したそうです。

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2日目の今日は津波の被害を受けた釣石神社、吉浜小学校跡地を見学。

釣石神社の境内にある階段の津波到達地点から階下を望むと、津波がいかに高かったのかがわかります。

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北上川河口付近にあった吉浜小学校跡地には、震災によりこの地域で亡くなった方々を弔うモニュメントが建てられています。
追波湾を望む風光明媚な場所ですが、辺りにあった建物の多くは津波の被害にあい、現在もまだ再整備の途中にあります。

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その後、南三陸町へ移動し『たみこの海パック』へ。

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ここを運営する阿部民子さんは、被災前ご主人が営むワカメの養殖を手伝っていましたが、津波を経験し海から逃げたいという気持ちになってしまったそうです。
7月に仮設住宅に入ってから社会福祉協議会での仕事を通じ、被災者への訪問を行う中でその思いを吐露したところ、海産物の詰め合わせ販売のアイデアをもらい事業化。
2012年10月にプレハブを改造してスタートした事業も徐々に軌道に乗り始め、短時間の就業であっても子育て中のママさんなど地元の人を雇用するように。
現在は新たな商品開発を行い、地元の海産物を加工品にして全国に広めると共に、あたり前と思っている事への感謝を伝える活動も行なっています。

今回宮城県を訪れましたが、東日本大震災から7年が過ぎた今も復興には至っておらず、多くの人の心に残った傷は深いことを改めて感じました。
しかしながら、震災に負けず、地域の再興と地元住民の活力を取り戻すための活動がしっかりと行われていることも併せて実感したところです。

6月18日に大阪府北部で震度6弱の地震が発生したように、神奈川県内でもいつ大規模地震が発生するかわからない状況であるため、今回の経験を元に改めて本市の防災環境の整備を構築していきたいと考えています。
posted by 高野たけし at 21:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする